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はじめに
藹藹とした霧雨の街を、人々が粛々と行き交う。あかい川、紅河は、中国昆明から標高三四一三メートルのファンシーパンの懐をぬけトンキン湾に流れ、下流域に肥沃な紅河デルタを形成した。その扇状地の中心にベトナムの首都ハノイ(河内)がある。古の王はこの街から龍が天に昇るを見て、街の名をタンロン(昇龍)となずけた。ベトナムの民族衣装と合わせて、浦島太郎の龍宮伝説へと話がつながる。二月のテト(旧正月)を過ぎたあたりの明け方には、霧雨に朝日があたり、光の粒子が降ってくる。極寒の地のダイヤモンドダストにも似た荘厳な景色は、木立に花が咲く春の予兆でもある。
かつてこの街に大日本帝国軍が侵攻した。練兵場の真ん中で、毎朝東方に向かい、正座合掌して朝日を迎える一人の若き日本兵の姿があったと云う。近衛隊長岡田良一氏である。彼はフランス人が建築し今も現存、営業する「ソフィテルメトロポールホテル」に宿泊し生まれて初めてフランスパンを食べた。「お米の飯でないと力が出ないと思ったが、フランスパンはおいしくて十分力がでた」と述懐している。岡田氏が正座合掌した練兵場跡を訪ねたが、今は定かではない。何回かの探訪によりおそらく現在のハノイ国立第一病院が建っている敷地が練兵場跡のようである。
雨季の驟雨と、刺すほどの太陽。南のホーチミン市(旧サイゴン)は、まったく違う顔を見せる。緑多きクメールの都は、歴史に翻弄され喧騒の街に変わっている。生き延びるための意思を、熱界雷のごとく放電しながら群集の中に飛び込んでいく人々。目に見えない何かが増殖を始めてしまったようである。かつての香港の九龍、日本の新宿と同じにおいが拡がっている。この街に身を置いた日本人は三つに大別されるような気がする。自らの内に眠った獅子の眼を開かされる人。底知れぬ嫌悪感に包まれる人。群集の中に飲み込まれ街の片隅に自らの安住の地を捜し求める人。ベトナムを日本人が論ずる時、見解が分かれる種類でもある。
北部と南部の異民族とも思える違いを、中部が支える。ベトナムでは天秤棒を担ぐ農夫の姿にたとえられている。
この国は、千年にも及ぶ中国の支配と、フランス・日本・アメリカとの戦闘の果てに、独立と祖国統一を成し遂げた。変化の激しい気候風土に耐え、為政者の横暴に耐えて、累々と受け継がれた芯の強さが、ベトナム人の国民性ではないだろうか。「楽天的でしたたか」と云われている。
ベトナム。日本語標記では、Vで始まるからヴェトナムの方が正確である。
ベトナムと言えば...。「ベトナム戦争」「ボートピープル」がイメージされ、澤田教一、酒井淑夫、石川文洋各氏の白黒写真がよみがえってくる。
一九七五年(昭和五十年)四月三十日、南ベトナム開放民族戦線・北ベトナム正規軍は、南ベトナムの首都サイゴンを陥落させ、ベトナム戦争は終結した。サイゴンの大統領府(現在の統一公会堂)の前庭から、アメリカ軍最後のヘリコプターが飛び立ち、その直後、正門の鉄柵を突き破って北ベトナム軍の戦車が突入し、建物の屋上に赤い旗が上げられた。この時の映像は、世界中の多くの人々の記憶に今も鮮明に残っているはずだ。近代戦争でアメリカに勝った唯一の国がベトナムである。もっともアメリカはベトナムに負けたなどと思っていない。撤退したのである。
祖国統一を成し遂げたベトナムは、その後ラオス・カンボジアを傘下に治め、東南アジアの盟主としての地位を狙っていた節がある。タイとかシンガポールの経済発展を、いつでも追い越せると過信したようだ。しかし、アメリカの経済封鎖に同調した西側諸国からの経済援助は望むべくもなく、ソ連邦が崩壊し、東側諸国からの援助も期待できなくなった時、中国の対外開放政策とよく似た、しかし、ベトナム独自のドイモイ(刷新)政策を取らざるを得ない状況に追い込まれたのである。
この開放政策を取るまでの約二十五年間をベトナム国内の論評は「偉大なる実験期間」とも、「アメリカに勝ちすぎた結果」とも言われている。
ドイモイ政策は、一九九三年頃から「最後の楽園」「投資の天国」とまで宣伝され、ベトナムブームを呼び起こした。この頃のベトナムは「毎日朝起きたら何かが新しく変わっている」とまで云われたほど、何度も殻を脱ぎ捨てていった。ベトナム人の目が爛々と輝いていた時である。
急激な海外からの人・物・情報の流入によりもたらされたものは、経済発展だけではなく、社会悪も近代化され、この社会秩序の乱れに対して、国内外から懸念が広がっている。
ベトナムの人たちは今、外資依存の開発独裁体制で傾いたインドネシアや、バーツの暴落により自国通貨のコントロール機能を失ったタイなど近隣諸国の経済状態と比較対照しながら、ベトナムの経済と社会のあるべき姿を模索している。
私がはじめて会ったベトナム人は、一九八九年、当時私が勤務していた河合楽器を訪問されたピアニストのダンタイソンさんだった。一九五八年ハノイ生まれ。アメリカ軍の北爆中も防空壕で木の鍵盤をたたいて練習したという彼は、ベトナム戦争終結後の一九七七年からモスクワ音楽院に留学し、一九八〇年十月第十回ショパン国際ピアノコンクールで東洋人として初の優勝を飾った。一九八八年から来日し国立音楽大学の客員教授だった彼が、河合楽器のピアノ工場を訪問したのである。
ピアノの検品は、上級者に成ればなるほどその場で弾きこんだりしない。さらには「柔らかな絨毯の上を素足で歩くような音」など芸術的・抽象的表現でピアノの音を表現される。ところが、当日はテレビの取材が入るなど多数の人が集まる中、彼の態度は、他のピアニストとまったく違った。一台一台ピアノをしっかり弾き、しかもコメントははっきりしていた。「このピアノの高音部は良くない」「このピアノの中低音部は伸びがあってすばらしい」など、ピッチからウエイトまで技術者をうならせる指摘を連発した。しかも彼はベトナム人でモスクワに留学していたはずなのに英語でコメントをされたのである。
その後私はベトナムに入り、ハッキリとした自己表現と目的に向かって不断の努力をするベトナム北部の方の繊細な気質に触れ、ソンさんが典型的な北の人であったことをよみがえらせた。
私がベトナムを好きになった理由である。
本書は、ベトナム政治学・社会学・経済学の各研究者諸氏のお立場とは離れ、また、法律改正が頻繁な、投資手続きとか、現行法の解釈も極力抑えて、どうしてベトナムが面白いかを、目の前の状況から書かせていただいた。
本書により、ベトナムでの事業の可能性を見出していただき、一人でも多くの方のお役に立てていただくことを願っている。
ホーチミン思想
現在のベトナムを知る上でもっとも重要なキーワードが「ホーチミン思想」である。
ホーチミンさんは、ベトナム民族の英雄である。南北ベトナムの統一後、旧南ベトナムの首都サイゴン市は、彼の名前ホーチミン市と改名された。しかし、航空機の国際都市表示は未だに、SGN。サイゴンの名を残している。改名に至った経緯については諸説があるが、サイゴンの漢字表記が「西貢」で、西すなわちかつての宗主国フランスにみつぐ名を残すのは、植民地支配の屈辱を引きずることになるためとも、旧南ベトナムの払拭とも、新体制へのゴマすりだったとも云われている。
しかし、庶民の会話の中には、ごく自然にサイゴンが使われており、会社名・店舗名などにも使われている。
ホーチミン。一八九〇年、ベトナム中部ナムダン県キムリエン村で生まれる。幼少時の名をグエン・シン・クン、後にグエン・タット・タイン、そして一九一九年のベルサイユ講和会議に「安南人民の要求」という請願書を提出したグエン・アイ・クオックとして、世界に名を知らしめた。一九三十年、ベトナム共産党を結成し、一九四一年三十年ぶりに祖国に帰り、その時からホーチミンと名乗った。ベトナム戦争終結を待たずに一九六九年九月二日に亡くなった。
「独立と自由ほど尊いものはない」世界中の独立を願う民族の共感を得た彼の言葉である。
一九九二年改正憲法の前文に初めて「ホーチミン思想」が登場した。一九八九年の米ソによるマルタ会談後の冷戦終結を受け、「マルクス・レーニン主義」に基づく社会主義国家の建設を、中国とも旧ソ連とも違うこの「ベトナム独自の社会主義体制」を標榜するのにもっとも適当な表現が「ホーチミン思想」であったのであろう。
ホーチミン思想二
現在はホーチミン研究が進み、諸説紛々の状況ではあるが、「生涯結婚せず独身で通し、祖国の独立と民族解放のための革命に命を捧げた国民的英雄であり、「ホーおじさん」として国民的敬愛を受けた。生活ぶりは質素で、常に労働者・農民を中心とするヴェトナム民衆のことを考えて行動した」(坪井義明著「ヴェトナム現代政治」七四頁)と言うのが通説となっている。
木造の粗末な家に住み、堅いベットに本を枕にして、人民服とスリッパだけの生活は、「清貧の教え」に通ずるものがある。
一九四五年九月二日、ホーチミン自身が独立宣言をしたハノイ市のバディン広場には、現在「ホーチミン廟」が建てられ、科学処理されたホーチミン氏の遺体が生前の姿のまま横たわっている。祖霊を敬い、先祖の遺影を家庭に祀るベトナム仏教の信仰の深さからか、「独立の父ホーチミン」を国民共通の先祖・英雄として、毎日多くのベトナム人が訪れている。
内外の研究者によるホーチミン研究が進むにつれ、ホーチミン氏の実像と虚像が発表され出している。結婚はしなかったが彼のそばに寄り添っていた女性は明確になっていて、しかも、ファーバンカイ首相はホーチミン氏の子供であるとの噂も出ていた。外国人記者が公の場でファーバンカイ首相に対して
「首相はホーチミン氏の子供であると言われていますが事実ですか」と聴いたことがある。
この時首相は
「ベトナム国民は、皆、ホーチミンの子供であり、彼を父と慕っています。」と、答えたという。
現在のベトナムは、急激な海外からの情報と製品の流入によって、拝金主義と厭世主義が蔓延し、汚職・麻薬・密輸など反社会的な犯罪が横行している。
ホーチミン思想はこのような状態に対する警鐘として、ホーチミンの存在そのものを神格化するかのように取り扱われている。
昔のベトナム
紀元前一世紀頃のベトナムにはドンソン文化という青銅器文化があり、北部には文郎国・オゥラク国があったという言い伝えがある。紀元前百十一年、漢の武帝によるベトナム北部統治が始まり、九六八年にゴ・クエン(呉権)が宋との戦いに勝利して中国から独立するまでの約千年間が、中国の支配下にあった。この間、現在のハノイ周辺は郡都が置かれ、トンビン・ラタン・ダイラと名前を変えて呼ばれていた。この頃のベトナム中部は、チャム族のチャンパ王国が、南部はクメール族のアンコール朝が治めていた。
その後も中国からの干渉を受けながら、群雄割拠の時代が、丁朝(ディン朝)黎朝(レ朝)李朝(リ朝)と続き、李朝のリ・タイ・トは、ダイラの都の川から黄金の龍が天に昇るのを見て、都をタンロン(昇竜)と名づけ、国を大越(ダイべト)とした。その間、中国の元により三回にわたる攻撃を受け、英雄チャ・フン・ダオが勝利した。後期黎朝(レ朝)の英雄レ・ロイは、山中の民家で偶然光る剣を手に入れ、明とのバックダン河の戦いに勝利する。勝利の後、レ・ロイがホァンキエム湖のほとりを歩いていると、湖から大きな亀が現れ、「その剣は勝利のためにあなたに貸したもので返して欲しい」と言われ、剣を湖に返したという伝説がある。今でも、ホァンキエム湖で一年に一・二度大亀が姿を現す。ハノイの守り神として崇められている。
一六九八年、クメール(現在のカンボジア)の森の都プレイノコール(現在のホーチミン市)が「南進」により平定され、千八百二年、グェン・フック・アインにより全国が統一され、中部のファスアン(現在のフエ)を都とする阮朝(グェン朝)を樹立し、国の名をベトナム(越南)とした。今でも「ゴオクエン通り」とか「レロイ通り」とか道路の名前に古の英雄の名を冠し、言い伝えられている。
近代から現代―激動のベトナム
中国の支配と干渉から脱し、統一を成したベトナム阮(グェン)朝は、皮肉にも統一に力を借りたフランスにより植民地化されていった。一八五八年、フランスによる侵略が開始され、一八八八年にはハノイを割譲し、フランス領インドシナ連邦に編入されてしまう。
一九四〇年、ヨーロッパでドイツがフランスに侵攻した時にあわせ、日本軍は北インドシナに進駐しマレー半島を戦火に包んだ。
一九四五年、日本の敗戦を見越したベトナム共産党の周到な計画により、終戦直後の九月二日、植民地支配からの脱却と民族の独立を表明するベトナム民主共和国の独立宣言が、ハノイのバディン広場でホーチミンにより成された。
しかし、覇権復活を目論むフランスは南部の支配を奪い返し、第一次インドシナ戦争が勃発する。一九五四年、北部の山間の都市ディエンビエンフーでフランス軍は要塞を築き、北ベトナム軍を殲滅すべく、迎え撃ったが、ベトナム側は人海戦術で物資を運び、塹壕を掘ってこの死闘に勝利してしまう。これによりフランスはベトナムの支配権を放棄し、約百年間に及ぶ抗仏戦争は終結する。
ところが今度は、ドミノ理論により共産主義国家の台頭を恐れたアメリカがフランスに代って南部に入り、傀儡政権を樹立し、北と南で対峙し、アメリカとのベトナム戦争に突入してしまったのである。
ベトナム民族解放戦線と北ベトナム正規軍は徹底したゲリラ戦を展開し、生と死の極限状態を見るほどの激しい戦いは、長期化するにしたがってアメリカに戦争の意義を失わせ、一九七三年、パリ和平協定によりアメリカ軍が撤退すると、一九七五年四月三十日サイゴンが陥落して、やっと悲惨な戦争が終結した。
中国・フランス・日本・アメリカと二千年にも及ぶ戦いの歴史を経て、まさに独立と祖国統一を勝ち取ったわけである。
戦後から現在まで
一九四五年四月三十日、南ベトナムの首都サイゴンが陥落すると、北ベトナム政府は一気に全土の社会主義化を進めた。旧南ベトナムの政府関係者、軍人は政治犯として捕らえられ、再教育キャンプに送られた。私財の没収から就業制限など大きく変化する社会生活に耐えられず、二千数百万人の国民の約一割、約二百万人が空路・陸路・そしてボートピープルとなって国を去っていった。
一方で、ベトナムに歴史的怨恨を抱くカンボジアのポル・ポト派との対立に業を煮やしたハノイ政府は、一九七八年、カンボジアに侵攻し首都プノンペンを攻め落とし、ヘン・サムリン政権を樹立してカンボジアに駐留する。これに対して、ベトナムの勢力拡大と、ベトナムに住む華僑の財産没収に怒った中国は、一九七九年、「懲罰」として中越国境を越え中越紛争が勃発する。
共産党の一元支配とカンボジアへの侵攻。さらには政治犯の拘束と、多数の難民の流失などの現象に、国際社会はベトナムに対して厳しく、冷淡に態度を硬化させていった。戦後復興の資金不足の中、ガンボジア派兵の軍事費がかさみ、南部の経済は落ち込み、農業分野は合作社の導入により生産と流通が滞り、技術開発力を持たない国営企業は、ソ連からの経済援助で古い機械をやっと動かしていた。
世界の冷戦構造が終焉を迎え、ソ連が崩壊に向かい始めた時、ベトナム政府は「ドイモイ政策(刷新)」を採択し、改革・開放政策を取らざるを得なかったわけである。
しかし、社会主義市場経済の導入は、中国とまったく同じではないベトナム独自の「ドイモイ政策であり、また、ソ連は失敗したがベトナムは「マルクス・レーニン主義とホーチミン思想」に基づいた共産党一党支配を堅持するという、「多大な言い訳」を生み出してしまった。経済の一部は開放するが、それ以外は開放しない意志の表明でもある。
今、ベトナムでは
WTOに加盟し、中国プラスワンの掛声により中国に工場を持つ各国企業が隣国ベトナムに工場を展開し、雇用機会は膨らみ、8%の経済成長率を維持し、書記長は「所得3倍政策」をぶち上げてと、順調な経済状況であったベトナム経済に暗雲が押し寄せた。2008年の年初から原油価格の高騰による石油関連商品の値上げ、鉄、セメントなど建築資材の高騰、サブプライム問題に端を発する国際金融の収縮など、まさに国際経済の大きな荒波が押し寄せてきたのである。
外国投資と米、コーヒー、水産物の一次産品に依存するベトナム経済は、インフレに襲われた。輸入品の高騰である。2008年4月の前年同月比物価上昇率は29.5%に達し、ベトナム通貨ドンはドン安が続き、ドルペック制からの脱却を政府が公表するなど緊急経済対策に追われた。
通貨ドンは、1990年代1ドル11,500ドンを基準にほぼ安定した為替レートを維持してきた。しかし、そもそも外貨準備高が不足するベトナム中央銀行に国際決済能力が十分ではなく、貿易収支は赤字を続け、当然ドン安傾向は抑えられなかったが、ここにきて2008年5月17,700ドンまでドン安が進行した。54%近いドン安である。1ドル110円の円が170円になるようなものである。政府は政策金利を上げ、通貨の両替規制、外貨の送金規制に加え、日銀への政策助言と人材派遣を要請するなど、相当追い詰められている。現在の銀行市中貸出金利は、年21%を超えた。
ベトナム人労働者の個人所得にも大きな影響が出ている。2008年1月の賃上げで、前年度物価上昇率分プラスαの基準に従い、20%プラスαの賃上げ水準を確保したものの、毎月の物価上昇率に追い付けない状況である。ここ数年の外国企業の進出により、優秀なベトナム人の確保のために初任給は上昇傾向にあったが、企業の業績が伸びない状況での賃上げは単なる固定費の負担増であり、しかも超短期での会社側の対応を求められるだけにただちに生産効率が上がるわけではない。やむなくベテラン社員を解雇し、短期労働契約による雇用調整も始まった。ベトナム人経営者からは給料支払日が怖いという声さえ聞かれる。
ベトナム戦争終結後の1980年代、ベトナムは年率800%というインフレを経験した。通貨ドンは信用力を失い、金、外貨特にドル紙幣が流通した。しかしながら国内経済のボリュームが世界最貧国とまで言われるほど小さく、アメリカによる経済封鎖により輸出入自体が少なく、ソビエトからのループル借款により国体を維持していたような状況であったため、当時は国際経済の中に組み込まれてはいなかったのである。
しかし、21世紀に入ってからのベトナムは、一部の商品で国際経済の一翼を担っている。わかりやすい商品でいえば日本の冷凍枝豆市場の70%はベトナム産である。トヨタのカムリのハーネスはベトナム製だし、リーバイスのジーンズ50%以上がベトナム製である。もはやベトナムの国内経済問題を無視できない状況である。
ベトナム人
ベトナム人を総論で語るのは無理であると思われるので、私の経験から知ったことをお伝えする。
ベトナムの人口は2008年速報値で8650万人。正確な調査結果は1989年1999年と、10年ごとに行われているため、次回は2009年の予定ながら、ここ近年は毎年100万人ずつ増加している。ベトナム戦争後(1975年) 生まれ、ベトナムでの戦後生まれの人口が着々と増え現在の20歳から24歳までの人口が最も多い。1989年の調査時点では乳幼児死亡率が59%あり、地域医療の未熟さが顕著だったが、現在は10%まで減少したようで、21世紀に入ってからはベビーブームが続いている。
ベトナムに入国すると、バイクの数に圧倒されるがホンダのスーパーカブ120CCクラスで2500ドルもする。生活の中心がバイクであったものが、現在の3種の神器は、携帯電話、自動車、分譲マンションである。2008年年初からのインフレによる金融の引き締めにより市中貸出金利が上昇したために、分譲マンション価格は下降線をたどり、自動車販売も減少してしまっている。しかし、バイクから車への乗り換え子供の送迎を車でして、最新の携帯電話を持ち、新築の分譲マンションをできれば2軒購入し、一軒は自分が住み一軒は賃貸してローンの返済に充当するという、新興都市型ベトナムセレブの生活にあこがれている。
ベトナム人はプライドが高く見栄っ張りのところがあり、安物の携帯電話を持っていたり、旧型のバイクに乗っていると貧乏でかわいそうにと言われる。反対に会社の誰かが800ドルもするiMACを買ったら、その日の内に社内に知れ渡り羨望の的である。どこで買ったとか、旦那さんが外資企業で給料がいくらだとか他人の財布の中まで詮索する。噂・口コミ情報が大好きである。
この傾向は戦争を経て一気に社会主義化が推し進められた時に、庶民に正確な情報が伝わらなかった名残であるといわれている。顕著な例が従業員の面接で、面接内容、給与交渉、質疑応答、面接官の口調まで全く個人情報であるにもかかわらず直ちに会社内で情報が共有されてしまう。誰にも言うな、なんて口止めをしたら極秘情報として噂が過激に流れてしまう。社員がパソコンに向かって仕事をしていると思ったらブログに書き込みしていたりチャットしていたりしている。
安くて優秀な人材の宝庫なんていう謳い文句はあまり当てはまらない。優秀なベトナム人は、数も少なく、給与は高くなっている。ベトナム人管理職、役員クラスになると月600ドルから1500ドル必要である。反面、高校、大学の教育が現場に即していないため、職業訓練分野ではソフトもハードも全くの不十分で、外資企業の需要に応えられるような新卒者はいない。時間をかけた社内教育が必要である。
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